日本酒ファン、酒旅ファンの皆様こんにちは!
さて今回の四国への酒旅もいよいよ3日目。
今日は松山のシンボル『松山城』と、郷土が生んだ明治の偉人、秋山兄弟と正岡子規をテーマにした『坂の上の雲ミュージアム』を紹介します。
春の四国旅1はこちらです。
春の四国旅2はこちらです。
霧雨の松山城は、優美な石垣のシルエットを纏って美しい!
3日目のスケジュール
昨夜はどうも5杯くらい飲んだようです。 未掲載の写真を調べると色々出てきました。
そんな訳で朝はゆっくり朝食です。 朝食をいただきながら外に目をやれば、ほとんど気にならない春の煙雨といったところ。
今日は雨ならば道後温泉かと考えていましたが、なにせ50年ぶりなので松山のシンボル『松山城』にのぼることにしました。
そして、その城山の麓にある『坂の上の雲ミュージアム』に行くスケジュールとしました。
午後には松山から柳井までフェリーで渡ります。
久しぶりの松山の市街地をゆっくりと市電でゆく
宿泊先は松山市駅のそばだったので、市電で大街道までいきます。 その方がゆっくりと街をみれますしね。 どこまで行っても180円です。
県庁の佇まいはあまり変わらないようですが、市街地を見れば立派なビルが立ち並んでいます。
大街道前の三越は、変わらずに頑張っているようですね。 でも近隣はホテル群で埋まっています。
『大街道』のアーケード街もシャッター街でなくて一安心です。 よく通った右側のパチンコ屋の上はボウリング場にカラオケ店ですか・・・
今はもうありませんが、左後方100メートルくらいにあったジャズ喫茶に毎日入りびたりでした。 その頃の松山は、喫茶店が沢山ありましたね。
さてここからは5分ほどロープウェイ乗り場まで歩きます。 この通りも随分と洒落たお店や飲食店で賑わっています。
どうもトラマサの頭の中だけが、『昭和』のイメージのままらしいね。 デパートや女学校などはそのまんまなのだけれど・・・
松山城には、東側のロープウェイかリフトで8合目まで行きます。 徒歩でも登れますが、130メートル余の山頂を目指すと大分時間を必要とします。
雨さえ降っていなければ、リフトが爽快ですね。 お城の中は狭いので、乗る前に荷物を預けておけば安心快適です。
松山城は城山全体が城郭をなしており、守りは鉄壁!
実は松山城は、城山の中腹に二の丸、そして麓に三の丸(堀之内)を置く、連郭式の平山城(ひらやまじろ)。
ロープウェイ乗り場からくると、その構成が見えないので単独の山城と勘違いしやすいですね。
早速坂道を上りましょう。 見えてきたのが『隠門続櫓』です。 ここの石垣は17メートルもあるそうです。
さらに登っていくと、『太鼓櫓』の石垣の向こうに天守・小天守が見えます。
次に右に曲がって、いよいよ『筒井門・櫓』。 そしてこの門の横に襲撃用の『隠門・櫓』があります。 タモリ番組で解説してましたね。
さらに『太鼓門・櫓』をくぐり、ようやく本丸広場にでます。 広場は真砂土のままでいいですね。 まもなくこの辺りは一面桜で埋まります。
松山城は『日本さくら100選』、『日本夜景遺産』などに選定されているね。 ほんといつ行っても絵になるお城!!
いよいよ天守に入場、門櫓天守の備えに加え美しさも完璧!
いよいよ天守に入場です。 ここには門が5つに櫓が3つ、これに小天守と大天守があります。 さらに外を取り囲む櫓と門が3つあります。
連立式の天守で多門櫓をつなぐ形式をとり、現存12天守の中では姫路城と同じ構造なんだそうです。
トラマサのお気に入りは『姫路城』『彦根城』『備中松山城』そしてこの『松山城』。天守・櫓・門・石垣・堀など城郭の構成が素晴らしい!
天守からの眺めはどの方向も素晴らしい眺めです。 天気がいいと東は石鎚山、西南方向に佐多岬まで見えるそうですから爽快な気分になりますね。
松山城の石垣を見て思い出すのは、『人は石垣、人は城』の言葉。
『人は城のような防御の盾ではない。石垣や城は、人の努力によって出来上がっている』のであり、人を大事にすることの重要性を説いた言葉ですね。
それにしてもクレーンのない時代に、よくぞ積み上げました。 先人のすごさを感じます。
学校群の建物もずいぶん変わっているね。50年前には郊外へ行けば田んぼがあったけど、今は瀬戸内海まで住宅地で埋まっている。
『坂の上の雲ミュージアム』は近代国家を目指した頃の日本を記した博物館
その昔銭湯に通っていた近くの秋山兄弟の生誕地を訪問!
『まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている』と早朝の鳥のさえずりの様なイントロで始まる国民的大作家・司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』。
共に松山で生まれた主人公の一人、皆さんご存じの正岡子規は、明治期の短歌・俳句の改革者であり、松山の地から多くの俳人を育てあげます。
一方秋山兄弟の兄好古は、陸軍大将で日露戦争でコサック騎兵を破り、弟真之は海軍中将で連合艦隊参謀としてバルチック艦隊を撃沈した、日露戦争の英傑です。
産経新聞の連載は1968年4月からで、トラマサの松山での学生生活と重なります。 でもこの頃は三島由紀夫の憲法・国防へのするどい論評、そして自決に強い衝撃を受けていましたね。
そんな状況なので小説のことも知らず、はたまた戦後教育のおかげ?で秋山兄弟のことも知りませんでした。 なので、ミュージアムに行く前に寄り道です。
この小説の主人公、秋山好古・真之兄弟は、ロープウェイ乗り場から数分の歩行町生まれ。 生誕地は戦災で焼け、2005年に復元されています。
この辺りもビルが多いですね。 4間ある平屋の造りは江戸時代のものを復元。 庭には兄好古の騎馬像と弟真之の座像があります。
兄好古は、学資がないので15歳のころ近所の風呂屋で働いたとか。 実はトラマサもこの近くで下宿していたので、同じ風呂屋に行っていたのかもしれない。 『貧乏・辛抱』は人を育くむね。
僅か30年で近代化を推し進めた明治のエネルギーが凝縮されている
『坂の上の雲ミュージアム』の入口は旧藩主別荘跡の『晩翠荘』の入り口を抜けていきます。 でもちょっと分かりにくいですね。
このミュージアムのコンセプトは、自由な心を持ち『公』のために命を懸けた明治の日本人たちの、力に満ちた時代精神なんだとか。
建物は日本を代表する建築家安藤忠雄氏による設計で、館内はぐるぐると下の階から回廊式に上って展示物を見て回ります。
2月までのテーマは、『坂の上の雲』にみる日本海海戦―『運命の海』でした。 具体的にどのような戦法だったのか、挿絵でよくわかりますね。
秋山真之は、地元愛媛の能島村上水軍の戦法まで、様々な研究をしていたとか。 そしてどの戦術書にもない独自の『7段構え』の迎撃戦法を練り上げたそうです。
その長々と艦隊を縦に並べる『長蛇の陣』や、『豹陣』の第三~六戦隊がおとりになって『虎陣』の第一、第二戦隊のほうに誘い込む戦法は見事に成功しています。
有名な東郷ターンの体型や、ロシアの逃走方向を第1艦隊が誤認したのを、長蛇陣形の第2艦隊がその進路を防いだことが大きい。 戦術、そして訓練の成果だね。
国力や軍力の歴然とした差がありながらも日本が勝利できた理由は、日本の秘策『科学』『戦術』『訓練』と分析しています。
一方ロシアの敗因は、『独裁』『統率』『練度』に問題があったとか。 すでに旅順艦隊は全滅し熱帯を超える7か月もの長航海では、戦う態勢になかったのでしょう。
でも日本は奇跡の勝利を勘違いしてその後昭和の『軍部の独走』を許し、40年後再びソ連軍の南下で敗戦を迎えたのです。
今また世界は、米国の民主主義対露中の専制主義の戦いに移行。 NATOとロシアの対立に加え、東アジアでも中国や北朝鮮の軍拡は歯止めなく膨張しています。
ウクライナ・ロシアの戦争が長びく中、実は日本にも進行の計画があったとニュースが流れました。 領土拡張しか頭にないロシアに対し、日本は茹でガエルなのかと心配になります。
昔アジア各地で戦争をして恨みを買い、多くの国民を亡くしたのは反省だね。 でもそのせいにして軍隊や戦争の放棄を定めた憲法をも見直さず、80年近くも安保体制の占領軍基地が日本にあるのにそのまま。 今の政治家をはじめ日本人の思想は他人任せ・先送りの無責任、国家・国防の意識欠如としか思えないね。 三島由紀夫の決起からもう50年か・・・
さてそんな思いを新たにして、この後は子規や秋山兄弟が旅立った三津浜から柳井にわたります。
お土産は、昔懐かしい『一六タルト』に南予の日本酒『川亀』を伊予鉄高島屋で購入。 霧雨の伊予灘に浮かぶ興居島を見ながら懐かしい船に乗り込みました。
旅のあとがき
天に輝く一塊の雲を目指して、一心に歩むがごとき明治期の人たちの凛とした日本人の精神を描いた小説『坂の上の雲』。
司馬さんは、明治維新から日露戦争までの30年間をして、庶民が初めて国家に参加しえた国民的感動を見事に書きあげました。
一方明治の文明開化期と戦後の高度成長期の時期はある意味どこか似ていて、誰もが坂の上の雲を思い描いて一生懸命登っていきました。
でも後者は占領政策・西欧化によって、武士道のような『精神性』、『国』や『社会』といった公の意識が希薄になり、さらに日本の伝統文化が廃れてきたのはとても残念です。
戦後生まれのトラマサは松山で学生生活を送り、その後故郷へ帰らず東京で立身出世を目指し国家資格もとりましたが、果たして公のお役に立てたでしょうか・・・
昨日は青春酒場で、そして今日は松山城の坂を上り『青雲の志』の元気を貰った松山への酒旅、いかがでしたか。 今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。