日本酒ファンの皆さんこんにちは!
今回は、先週北海道は増毛の『国稀酒造』さんへ行ってきましたので、最北の酒蔵の栄華の歴史と今をお伝えしたいと思います。
増毛と言えば、かってはニシン漁で栄えた港町。 その出稼ぎ労働者『ヤン衆』に『国稀』はどんな夢を見させてきたのでしょうか?
ところで『最北』とか『北』と付くと、なぜか南で育った人間はそんな歌に酔いしれ、酒に酔いしれ一種のトランス状態に置かれてしまうのです。
昭和の歌詞ではありませんが、北海道開拓の歴史が一杯詰まった増毛の酒蔵『国稀酒造』の訪問記を綴ってみましょう。
『国稀酒造』は4代に渡る増毛文化の栄華を今に引き継ぐ
豊饒の海におどるニシン景気に乗って、初代は天塩国隋一の豪商となる
町名『増毛』とは、アイヌ語の『マシュケ』からの由来でカモメの群れる処。 この地に集落ができたのは1706年頃、松前藩家老の下国家が知行地としたことに始まります。
その後1751年、松前の豪商・村山伝兵衛が函館奉行所よりニシン漁の網元を請け負うと、一気に巨万の富を築き、増毛は蝦夷の漁場として衆目を集めるのです。
伝兵衛の成功以来近代まで、多くのニシン御殿を持つ網元が軒を連ねたそうです。 そのうちの一人が初代の本間泰蔵氏でした。
泰蔵氏は佐渡の出身で1849年生まれ。 実家は、佐渡の領主本間氏に裃を収めていた仕立て屋だったそうで、名家の血筋であったことが伺えます。
1873年23歳で小樽に渡り、呉服商『丸一松井呉服店』に番頭として働きます。 時代は正に明治維新から10年、一獲千金を夢見る入殖者が小樽の街に溢れていたことでしょう。
泰蔵氏は増毛にも行商に出かけ、飛ぶように着物が売れるニシン景気の繁盛ぶりに驚きます。
ところが2年後に呉服店は閉鎖。 泰蔵氏は着物を買い取って増毛に移り住み、行商を始めますが、ここで女傑と呼ばれる金融業者と出会います。
この女性は、着物を売り歩く泰蔵氏に店舗を提供援助してくれますが火災で焼失。 さらにその後も資金を提供し、窮地を救ってくれます。
如才ない彼の商才こそが、北の金融業に生きるビジネスウーマンの心を動かしたのでしょう。
こうして窮地を脱した泰蔵氏は、『丸一本間』の商標を掲げた石造りの店舗を完成させ、荒物雑貨やニシン漁、そして1882年に酒造業を始めたのです。
合名会社に改組して多角化事業をすすめる
その後1887年(明治20年)に、泰蔵氏は海運事業を開始します。
この頃の増毛の物流はまだ海運に多くを依存しており、不安定な運航や割高な運賃から物資の不足や物価高を招き、泰蔵氏は自家海運の必要性を痛感していました。
そこに商機を得た海運事業は、その後小樽の汽船会社をしのぐ規模となり、旧商法が施行されて間もない1902年(明治35年)に合名会社となります。
会社は、呉服雑貨、漁業、醸造業、海運業、不動産(土地、山林、倉庫、借家)と多角経営を営むまさに『北の総合商社』であったそうです。
そしてこの年、地元増毛・留萌から道北の沿岸や利尻・礼文の島々の需要にもこたえるため、現在地に酒蔵を移転します。
『国稀』誕生秘話と日露戦争の光と影
さて、社名及び酒名となっている『国稀』の誕生秘話は、日露戦争(1904~1905年)の英雄乃木希典大将につながります。
開戦後まもなく、東郷大将率いる連合艦隊は要塞化された旅順口にくぎ付けとなります。 バルチック艦隊が回航されるまでに陥落させねば、陸海軍とも滅亡の危機に立たされます。
海軍の要請を受けて陸軍首脳部は第三軍を創設。 乃木大将を司令官にして戦地に送り込みますが、大要塞からの十字砲火にはなすすべもありません。
攻撃開始から4カ月も経ち兵力が尽きかける中、戦法を要塞攻撃から二〇三高地への総攻撃に切替え、激戦の末に旅順を陥落させたのです。
この旅順攻防でなんと6万人近い死傷者を出し、乃木大将は明治天皇への拝謁で涙ながらに割復自決を申し出るも、今はその時でないと労われれます。
その後、乃木大将は天皇との約束を守り、各地の遺族と傷病兵をさらにはロシア兵をも見舞ったそうです。
さて、かの二〇三高地で戦った第七師団には増毛町民が多数入隊し、多くの犠牲者を出しました。 そこで泰蔵氏は慰霊碑を建てる発起人となり、碑文揮毫を依頼に上京します。
その忠魂碑(慰霊碑)は大正5年に建立しますが、明治45年9月明治天皇の大喪当日、乃木大将は静子夫人と共に自決し、本懐を遂げています。
そんな乃木大将に面会し義理堅い人格に感銘を受けた泰蔵氏は、1920年(大正9年)希典の『希』から『稀』に変じて、それまでの『国の誉』を『國稀』と改めたのです。
激動の昭和を、二代目蔵元の妻キミは女手一人で守り抜く
さて、行商から始めて一代で財をなした泰蔵氏ですが、残念ながら後継者には不幸が続きます。 嫡男の泰輔氏には子がなくて、泰蔵氏の娘千代の子を養子とします。
ところがその子・一夫氏は5歳で脳膜炎を患い、失明してしまいます。 泰輔氏自身も体調がすぐれない中、大番頭さんたちや泰蔵氏の次男・泰一氏が家業を助けます。
1925年(大正14年)に泰蔵氏が75歳で隠居し、泰輔氏が社長に就任します。 しかしその2年後に泰蔵氏がなくなると、泰輔氏もあとを追うように亡くなります。
泰輔氏の妻キミさんは旧松前藩家老・下国濱三郎の次女で、ご先祖は増毛を知行。 多角化事業に子育ての多忙な毎日を、毅然として差配を振るいます。
その後昭和の軍国化の波を受け酒米の供給に陰りが見え、海運事業も低迷する中、1937年には次男泰一氏も43歳で亡くなります。
実は泰一の次男・泰次氏を養子として迎えていましたが、まだ14歳。 本間家の事業を背負うには早すぎ、46歳のキミさんには蔵元としての試練が続きます。
戦前戦後の激動期には、国の企業統制を潜り抜けながらも酒造業と漁業に事業を絞り込み、女手一人で丸一本間の暖簾を守り抜いたのです。
そしてようやくキミさんは働き盛りとなった泰次氏の成長を見届け、1968年に76歳の生涯をおえます。
なんか映画にでもなりそうな女性蔵元の波乱万丈のストーリーで、しかも『坂の上の雲』の乃木大将まで引っ張てるね!
そして今、4代目が増毛の歴史と共に酒蔵を守る
しかしながら三代目となった泰次氏は、その後町議や町長の公職に専念することとなり、ここでも妻の擴子さんが4半世紀もの間社長を務めます。
そして今、年間13万人もの来場者を呼び込み4000石を造る『国稀酒造』にブラッシュアップしたのは、4代目の林眞二社長・花織夫妻です。
3代目の泰次・擴子夫妻には2人の娘さんがあり、長女の花織さんは家電メーカーに勤める旦那さんと本州暮らしでした。
ところが眞二さんの会社が不況でリストラを敢行し、希望退職により失職。 そんな折に、母・擴子社長から『酒蔵をやってみたら?』と声が掛かります。
1997年、林社長夫妻は第2の人生を増毛でスタートさせます。 その頃は札幌への営業が奏功して低迷期を脱し、2000石を超える上り調子となっていました。
林社長は、早速1999年に近代化5カ年計画をスタート。 新社屋を建設し蔵の設備も増強、開放型の販売店と駐車場を整備し、酒蔵を一般公開していきます。
旧商家丸一本間に伺うと、丁寧にご挨拶に来られた女性は驚くばかりの麗人だった。 あのお方は、次女の櫻さんだったのか、次世代か? 女性に支えられる酒蔵かあ・・・
さらには会社設立から100年目となる2001年、代表銘柄『國稀』を冠した『国稀酒造株式会社』に社名を改めています。
林社長のアイデアは地元の酒米造りや船による熟成などにも及び、増毛町とタイアップしたマーケティングを展開し、今や北海道を代表する酒蔵となっています。
国稀酒造の酒造りと増毛のグルメ
暑寒別岳の超軟水で、やわらかな辛口に仕上がる
道北を代表する名山・暑寒別岳は、石狩平野の北に位置する増毛山地の最高峰。 なだらかで大きな山容をほこり、豪雪地方だけに遅くまで残雪を光らせています。
その残雪を源流にした伏流水は硬度20弱の超軟水で地下15メートルのところに溜まり、国稀の個性『柔らかな辛口』を育んでいます。
この超軟水はゆるやかできめ細かい発酵を促すそうで、低温を維持しながらの長時間の仕込みで醸しているそうです。
最北の酒はさぞ辛口と思っていたけど、そんなに辛くない。 むしろ小樽やニセコの方が辛口かな。 超軟水の仕込み水がいいんだね!
また酒米には高級酒に兵庫産の『山田錦』や、富山・新潟産の『五百万石』が使われています。
一方純米酒クラスは地元・増毛町産の『吟風』を全量買い取り、定番商品や期間限定商品などに使われています。
南部杜氏の伝統的技術でコンテスト上位となり、人気をえる
『国稀』は普通酒の比率が高く、地元でほとんどが消費されていたとか。 今では全道で飲まれ、9割近くが道内で消費されています。
もともと北海道のお酒は、労働の疲れを癒す酒。 安価で飲み飽きしないお酒が求められ、『国稀』はまさにそんなお酒です。
その酒造りを担うのは、南部杜氏の技を駆使する伊藤良介氏。 伝統を受け継いだ蔵人たちによって、国稀の上質な味わいが生み出されています。
そして卓越した技術は、近年『全国燗酒コンテスト』や『KURA MASTER』でも金賞受賞によって評価され、全国にもフアンを広げています。
お楽しみの試飲は3つ、蔵元限定の生酛純米はふっくらとした旨みがある
さてお楽しみの利き酒、なんと17種類も用意してあります。 『国稀酒造』さんの造りは、普通酒が過半を占めますが、みんな特定名称酒です。
でも、さすがにこのご時世なので全部飲みとはいかず3種類のみ。 ならば、蔵元限定酒をセレクトしてみました。
まず1杯目は特別純米生貯蔵『みずおと』。 55%精米の五百万石、やや辛のスッキリした口当たりです。
2杯目は純米大吟醸『選』、山田錦ながら淡麗辛口に仕上がっています。 芳醇な香りと綺麗な透明感のある味わいですね。
そして最後は『生酛純米』、55%精米の五百万石で蔵付き乳酸菌の生酛らしく酸味があってキレと深みのある味わいです。 これがイチオシでした!
試飲のあとは、プリプリの『甘エビ』と濃厚な『バフンウニ』
さあ、試飲で美味しいグルメを呼びこんで、『寿司まつくら』にて増毛の名物『甘エビ』と『エゾバフンウニ』をいただきます。
開店11時前には、京都や札幌のナンバーを付けた車やバイクが沢山集まってきます。 やっと席を確保して、『甘エビ・ウニの二色丼』をチョイス。
海の香りと濃厚な味のウニ、そしてお尻を軽く持つとスッと抜ける獲れたての甘エビ。 もう至福の悦びですね!!
まとめ
ニシン漁は江戸期以降北海道の漁業をささえ、そのピークは1897年(明治30年)で年間100万トンの水揚げを誇ったそうです。
『旧商家丸一本間家』を栄えさせたのはニシンに間違いないところ。 残念ながら1950年代以降全く獲れなくなり、贅をつくした装飾品にその栄華が見れます。
そんなニシンですが、長年の資源管理の成果でニシンはここ10年で4倍の水揚げが回復しつつあります。
一方、日本酒造りも本来への味わいを求めて古典技術への回帰と、新たな飲みやすい日本酒を求めて様々な取り組みが行われています。
酒と魚の組み合わせは、古来からの日本食の楽しみ方。 北の銘酒と北の海の黄金の輝きが、これからも多くの人々を呼び寄せて欲しいものです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。 それでは、次回もお楽しみに!